「道つり自殺」と書いて死んだ子

私が学校に通っていた頃は「いじめ」が社会問題となっていたが、最近は特に聴かなくなっていた。
今の子は逆に、人をいじめるほど体力もないし、他人にも興味がなくなってきたんだろうという風に思っていたが、まだ「いじめ」は存在するし、いじめられて自殺してしまう子もいるようだ。
最近、テレビのニュースでよく見る。


俺もいじめられた側の人間だけど、自殺するまで考えなかったな。
どうせ、あと何年の学校生活だし、いじめているヤツはロクな将来を送らねえだろうなと思っていたし。
そもそも、「いじめ」ってレベルの低いヤツがすることだと思ってたしね。
確かに、辛い生活送ってたし、今でも会いたくねえけど、自殺はなかったな。
自殺するくらいだったら、相手を殺すことを考えたろうね。
親からは「やられたらやりかえせ」みたいなこと言われたけど、俺は違うとヘンな自尊心で反撃はしなかったな。
そこに美学までは感じなかったけど、やられてるヤツが勝ちなんだと思ってたな。
うわ、これ書いててイヤなこと思い出したなあ。
俺がいじめられていることが問題になり、俺がいない時にクラス会議みたいなことが開かれたのを、後からなんとなく知ったときね。あれは、恥ずかしかったね。
それはやりすぎかな。まあ、しばらくはいじめは軽くなった気がするけど。


「いじめ」はいじめるヤツが100パー悪い。だけど、なぜ自分がいじめられるのか、見つめる意義はあると思う。
それを理解したからといって直す必要はないんだけど、客観的に見てみる余裕もあっていいと思う。
俺の場合は、勉強ができたり、スポーツもそれなりに出来たり(昔は出来たなあ…)、学級委員長に推薦される人間性など、ステータスの良さと、いじめられるキャラのせいだと思う。
別に自慢ではない。大人になって、そのステータスは何の役にも立ってない。中学の頃がピークだった。その中学校の中ではトップでも、社会にはもっと凄いヤツがいっぱいいるのだ。
ただ、このいじめられる「キャラ」というのが難しい。
人間は「いじる」人と「いじられる」人に否応なく二分されてしまう。そして、自分が「いじられる」側だというのを(甘んじてでも)理解できればそう問題でもないのだが、「いじられる」側なのに「なぜ私はいじられるのか」と自分の性質に納得できない人間がいるから困るのだ。
実際、キャラを変えるのは至難の業だ。自分が変えようとしても、他人がどう見るかにかかっているから、なかなか「いじる」側には立てない。


話題の子はどっちかわからないけど、6年生にもなって、「首つり自殺」を「道つり自殺」と書いているあたり、なんとなくは「ああ、そういう子なんだあ…」と感じてしまう。テレビに大写しになっていて、不謹慎にも笑いそうになった(もちろん、キャスターたちはノータッチだったけど)。
こうして、「いじめられて自殺した子」ではなく「道つり自殺と書いて死んだ子」として、私の備忘録に残ることになり、半永久的にインターネットの世界に記録されることになった。死んでしまったのに、まだ「いじられて」いる。


前段階が長くなって迷走してしまったが、私の言いたいことはむしろこっちで「ちゃんと勉強はしておかないと、恥かくぞ」ということ。なぜ勉強しなくちゃいけないの?ってこういうことなんだよ。


国語算数社会理科の知識が、実生活でほとんど役に立たないかもしれないけど、勉強する理由は簡単に言うと精神修養のためなんだと、大人になって思うんだよなあ。勉強してもロクでもない人間になることもあるけど、しなくてロクでもないヤツになってるケースは多いと思うよ。勉強=努力することで、努力できる人間になれるかなれないかなんだよ。


罪滅ぼしのために、今いじめられて困っているおともだちへ。
死んじゃダメだ。そして、相手も傷つけてはいけない。
ここは、大きな力にすがるんだ。先生や親に相談してみなさい。
そして、次のステージを考えるんだ。今いるクラスや学校なんて、あと何年で終わるんだい?その子たちと何日いっしょに暮らすんだい?
「いじめ」なんてくだらないヤツやレベルの低いことがやるヤツさ。もっと高尚になろうぜ。